そもそも、自分にとってのお菓子は「何なのか。」

小学校の頃走るのが嫌いだったので、鬼ごっこも嫌いだった
北海道倶知安(くっちゃん)お菓子のふじい・株式会社ふじ井・カナリアップ 代表藤井千晶です。

いろいろ計画を立てる前に。

先日のブログ↓

本来であれば、7月スタートの株式会社ふじ井はとっくの前に、今期の方向性などをスタッフに示してるはずが、全くできてない状況。ずっと悩んでるというより、考えている。

自分の中で「どんなお店にしたいのか」「なんのためにお菓子を作るのか」「お菓子のふじいは何なのか」この問いをしてた中で、明確な答えの一つは

私にとっての「お菓子は優れたツール」であると言うこと。

しかも物心ついた頃には、使いこなしてたんじゃないかと思っている。

子供の頃からお菓子の価値の凄さに気づいてた

小学校低学年のちあきちゃん

幼い頃から、お菓子屋生まれのお菓子屋育ち。お菓子食べすぎてパンパンだった私は、祖父と粘土の代わりに「練り切り」と言う和菓子で、お花を作ったり鯛を一緒に作ったり、小学校の頃には家庭では作ることのない、大量のバレンタインのお菓子を父と一緒に作ったりしていた。

*お菓子はキレイで楽しい
卵・小麦・砂糖がいろんなものに化けてく、化学実験のよう!
上生菓子は美しく、いろんなものに変化をする!

*お菓子は人に渡すと喜ばれる
ケンカして気まずがろうが、お菓子の大きさかかわらず
お菓子を人に渡すと喜んでもらえる。

*お菓子が違うものになって返ってくる
バレンタインはお友達から、自分に関わる大人に配りまくると
全体の1〜2割がお返しをくれた。
お返しをもらえなくても、喜んでもらった時点で私も嬉しいので気にもしないが、
お菓子が違う価値のものに交換される事を知る機会だった。

小学校の卒業文集

自営業という環境の中、作ったものが誰かに喜ばれ、何かの価値に変換されることを体感として持っていた私の子供の頃の夢は「お菓子屋をつぐ」ということ
「お菓子屋」と書かず「お菓子屋をつぐ」と書いてるのはこの場所や状況を継続したいという意志の表れだから、お菓子屋の家に生まれたことを子供ながらに誇りに思ってたんだと思う。

お菓子屋が嫌になった思春期

しかし、高校生ともなると反抗期や思春期に突入して「生まれながらお菓子屋である」ことが嫌になった時期があり、その頃はスキーをやっていたが選手としては才能はなく、スポーツ選手のサポートをしたいと、高校卒業と同時にスポーツトレーナーになろうと札幌の専門学校に入った。

全く知らない土地で、「お菓子屋ではない」自分になり、誰にもそのことを伝えず、学生生活をスタート。誰かにいじめられたとか、人間関係が悪かったとか、そういうことは全くなかったが、何か違和感を感じたまま生活をしていた。

そんな中、初めての一人暮らし、お菓子屋さんの環境ではなく、一般家庭の環境の中お菓子を作ってみようと思い立ちチーズケーキを作った。自分なりに家庭用のオーブンで何度も工夫しながら作ったお菓子を、同級生に食べてもらったら「美味しーーー!お店のケーキみたい!」と言われたのが、とてつもなく嬉しかったことを覚えている。

今考えれば、お菓子屋さんの環境で作るお菓子は、「環境のおかげ」で「美味しいことは当たり前」で自分の力ではないことに「違和感」を覚え苛立ってた思春期だったんだと。

だから、初めて全てのバックグラウンドを消して、自分で作ったお菓子が純粋に「人に喜ばれる」という事実を目の前にしたときにお菓子の価値を再認識した。

一度お菓子から離れたものの「お菓子は必要」と感じて、半年でスポーツの専門学校をやめて、東京のお菓子の専門学校に進学することにした。両親には物凄い費用を払ってもらい、本当申し訳ないが、この経験は今も深く残ってるので、見た目の「学校を辞める」という事実よりお金に変えがたい経験だった。

製菓専門学校入学と社会人

東京に住んだ製菓専門学校時代。素材の勉強で、北海道ってすげーと感動し。
スキーのインストラクターで長野や新潟のスキー場でバイトした時、ニセコのスキー場は憧れの地ということで、ニセコのスゴさを知った。
外にでて、当たり前の景色は当たり前でなく、価値ある事にきがつく。

東京に住んでる間は有名な菓子店を食べ歩き、専門学校卒業して、北海道の大手菓子メーカーに就職が決まっていたので、あちこち旅行をしていろんな景色を見た。

お菓子に仕事として関わるようになって、外から実家のある倶知安を見たときに、ちょうどニセコが海外からのお客様が入り始めて、世界的リゾート地として盛り上がり始め、素材は揃ってるし、すごい価値がある地域という印象を受けていた。

住んでいた時の目線とは、まるで違う景色を外から見えていた。

お菓子のコンテストや、海外の渡航、海外の素材、そういうもの全く興味がなく、興味があるのは
「自分がこの地域の素材で何が表現できるのか」ということ。
なので、正直お菓子作りの腕はなくても、地元の素材を生かすことが、最大の武器になるだろうとその時から自覚していた(夫のタカヨシさんは腕あるよ)
そして、後を継ぐというより、起業する気持ちで帰ろうと決めた。

実家に帰って、改めてお菓子の価値が増えた

2006年に実家に帰ってから現在2020年。もう14年も経つが
帰ってきて最初、現在欠かすことのできない石川養鶏の方と友達になったり、牧場タカラさんに行って牛乳を仕入れたり、一次産業と言われる方々の素材を使うことで、彼らの価値をあげることに貢献できることだと、気がついた。そして、生産者が「うちの材料ふじいさんで使ってるんだよぉ」と自慢してくださったり、他の方に勧めてくれることが楽しいと感じた。

14年という時間を通して、様々な生産者の方とお会いしてこの人好きだなーと思える人たちは、みんな自分の作った物を愛しすぎるオタク。売る事よりも良い物を作ることに集中しすぎる傾向があって、世の中にその価値を伝えきれてないなと感じることも。(もちろん上手に売ってる方もいます)

そういう方の価値をお菓子として提供して価値上げれたら双方にとって、こんなに素晴らしいことはないなという確信を持った。

まとめ・お菓子のふじいにとってのお菓子とは

会社を運営してる以上、売り上げは上げないといけない。
大きな借金もお背負い、少ないながらも従業員も抱えてる。

ただ、売り上げをあげたいと言いながら、好きではない人とは仕事はしたくない、お店やスタッフ、お菓子の価値を認識せずに「とりあえずお菓子を売ってくれ」という人とは付き合いたいと思っていない。

そこにギャップがあること、ただ売れると自分が苦しくなること、自由にやりたい事をやって、そこに売り上げがついてくる構造にしないいけないんだと、ここ一年強く思った。

子供の頃に思い描いた

*お菓子はキレイで楽しい

*お菓子は人に渡すと喜ばれる

この二つは前提条件で

*お菓子が違うものになって返ってくる

この違うものになって返ってくるというのが、
お菓子を通して、人とのつながりで価値がめぐるという事だと

お菓子は食べて消えてしまうけど、それを手段の中心とし自信を持って良いんだと。
お店は変化をして、やることも変わるけれど、お菓子をツールとしてお店として使いこなしていきたいと、今、心から思ってます。

美味しそーなお菓子たち


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